昭和46年07月03日 朝の御理解



 御理解 第1節
 「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」

 天地の大道理を分からせて貰い悟らせて貰い、天地の道理に即応した生き方をしなければ、人間の真実の幸せはありえない。そういう事が本当に分からせて貰うという事。それが「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と。人間が幸せになりたいと思うて、我情を言い我欲を言うてそして果たして幸福になれるかどうか。あらゆる地位とか権力をもってだけで人間が果たして幸せになれるかどうか。そういう信心の根本的な所が解らせて貰える。人間としての値打ちを作ると言う事はそのまま天地の道理に即応した。
 天地の道理に合うた生き方をさせて頂くという事が、万物の霊長としての生き方であり。そこから人間の真の幸福が得られるのだと。この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと。人間の幸福は人間の力ではなし得ないものだと。そこに翻然として分かると言う事が。天地の開ける音を聞いて目を覚ました姿であり、その姿をもって行いそして神様が願ってござるおかげ、私共が願っているおかげというものが、一つになって表れてくると言うところに、人間の幸福があるのだという事であります。
 私は昨日新聞を見せて頂いておりましたら、広告に中央公論がいろんな宗教を集めてその様々な様相と云うか、又は宗教が社会にあって、どの様な所を担当して行くべきかと言った様な事が、増刊号ですからもう宗教その事ばっかりを集めたものらしいです。そういう広告が目につきまして、金光教の事も出ておりました。だから私はそれを一冊買わせて頂こうと思いまして、高橋さんにお願いして昨日買うて来て頂きました。
 そしてそれを私開かせて頂きましたら、大本教の事が出ておりました。不敬事件でその時の教祖と云う出口王任三郎ですか、その人は終身刑にあいました。幹部の方達は皆それぞれれの刑を受けた。今から考えて見ると馬鹿の様なことですがね。その王任三郎のお母さんにあたる方でしょう。宗祖的な出口ナオという本当に無学な一生を苦労で終わったと言う様な方らしい。
 その方がある時に神憑りになって、それからずっとお筆先全然字を知られない人だそうですけれども、筆を持ってとにかく一万帖という紙を数える、一帖二帖と言うですね。一万帖からのものを、書かれたというのですからね。その中にはですね、例えばまだ日清戦争がある前ですけども、日清戦争のあることやら、日露戦争のある事やらこの今の、第二次大戦のことが予言してある。よく金光教祖のそれとよく似ている。
 巡りという言葉が出来たり、御用という言葉が出て来てたりするのです。私はそれを見て非常に興味深いと思いよってから、読ませて頂いたのですが、そのお筆先というのだそうですが、天理教祖と云うのもそれですね矢張りお筆先を、筆を持つとね、手が自然に動くわけです。これは私も大変修行の激しかった時分に、それがずっとあったんです。こうやって持つとね、自分で面白い絵を書いたりですね。
 もう思いがけない事が私は字を知っておるし、ですから疑えば限りがないですけども、思いもかけない事柄がこうやって「徳は弧ならず弧は折々の信心」なんて御教えを頂くのは、私が一番初めでした。筆を持つと自分から手が動くんですこうやって。それをお筆先とこういう。その出口ナオという方が、一番初めに書かれたお筆先の文句というのがね、梅で開かせ松の世で終わるという句であります。梅で開かせ松の世で終わる。
 それを二代の出口王任三郎という方が、色々に理解付けましたり、又ひらがなばっかりで書いてありますから、それを漢字を当てたりして、されたという事でございます。今朝から御理解を頂こうと思うてから頂いたら、御理解第一節です。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと言うてある。同時、私の心の中に夕べ私は一時から起きましてね、それから今朝四時にここに出るまで読ませて頂いたんです。
 そのところだけを読ませて頂いて、まあ大変小さい字で書いてあるから、こげんして眼鏡をかけて読まにゃ分からん。まあ本当に素晴らしい事だなぁ、私が何時も、お道で云う全教一心全然一家といった様な言葉があるが、三代金光様が仰せられておるが、金光教の中で、皆が仲ようしていけと言うて、私共は、意味に取られとるが、そんなことじゃない。全教一家と云うのは、もう世界中の、人の難儀が助かる事を目的とする、宗教宗派があるなら、これが一つになって世界の難儀に当たらなきゃならん。
 これが、私の持論なんです。金光教なんて、小さいものじゃない。例えば、今日の出口ナオという方が、書いとられる、お筆先なんかが、全部じゃない、僅かずつ書いてありますのを見て、全部私は共鳴いたしました。やはり、出口ナオという方も、それを言うとります。この大本教の神だけが、手柄をしょうとは思わんと、云ったような言葉で言うとられますね。
 それはもう自分の宗教、自分の宗派じゃ考えられんというような見方をする者は、自分だけが手柄者にならうとしておるわけですから、そんな事じゃない。世の中には、例えば人間でも、黒かつもおれば白かつもおる、黄ないともおる。それぞれの民族宗教というかね、どういう中にあっても、人の心を心を和めたり、いわゆる幸せになっていく事の為に、そこに信心が、宗教があるならね、そういうものが皆集まって、世界の難儀に立ち向わなければいけないという、私は、生き方をです、私はその出口ナオという方のお筆先から、私自身もそれを共鳴いたしました。
 そして、梅で開かせ松の世で終わるという、いつも私が頂いている御理解に、何かぴったりするものを感じましてね。何か心に深く残っておりましたら、今朝頂くのが、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと云うことでした。ですからこれは、大本教風にこれを理解つければ意味が違うかも知れませんけれども、今日は私はここんところをです、だから梅で開かせである。梅と云うのはここでは辛抱と、信心辛抱と云われとります。いうならば、本当に神様がなからにゃ辛抱は出来んと言うごたるとこを通っておる人なんです。今が修行の真ん中じゃろうかと云うところを通っておる人なんです。
 そういうね、梅で開かせ、そういう修行を与えられておる時に、目を開かなければ開く時はないという事です。只、その苦しいところから助かりたい助かりたいと言うだけでは、駄目だと云うことです。話を聞いたり、読んだりしなくても理屈は分かるけれども、心が翻然としてです。成程、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだ、人間の幸福はあり得ないのだと、例えば分かると云うことがです、梅の時です。梅の時代です。難儀を感ずる時に、それだけ神様へ心を打ち向ける。
 普通で言うならば、朝早うから眠うしてこたえん中を、眠かつを押して起きるという様なことは、なかなか出来ませんけれども。難儀を感ずるから、それが出来るのです。だから、難儀を感ずるから、神様に打ち向かう力も、大きく本気で、いわゆる、真剣になるわけです。だからその真剣になった時に、どうぞ助けて下さいだけではなくて、真剣になった時に、本当に神様の心を分かろう、本気で教えを聞かせて頂こうと云う修行に入らなければいけないという事です。
 昨日から北野の秋山さんところの長男の満之君が朝の御祈念に参って、昼の一時の御祈念に参ってくるのです。この月次祭にお参りをして来て、久富委員長からお話を聞いた。信心倍増運動という事を聞かせて貰って、まあとにかく信心が一つ倍にならにゃいかん、一ぺん参るとは二へん参ろうという気になったと云うのです。帰ってそれをお母さんにその話をしたけん、お母さんがもう翌日参ってきてから涙流して喜ぶんですよね。満之が先生こげな事を言いよりますが、まぁ続くか続かんか分かりませんけども。
 どうぞその心が、本当の信心になっていく、目を開かせて頂くおかげになりますようにと言うて、お願いをさせて頂いた。成程昨日から朝の御祈念に参って、昨日はまた昼に参ってきておる。あんまり大体が色が白いうえに、もう真っ青になって行く訳ですね。それでやっぱ自分でも心配になって病院に行った所が、病院の先生が例えば幹三郎じゃなかばってんが、ちょいと親も親なら子供も子供と云うそうです。
 こげんなるまでほうからかして、所謂善導寺の親先生が今患っておられる病気と寸分変わらん様な症状だったんです。血も体にある30%位しかないと云うのですから、三分の一しかないと言う。成程青うなるはずなんです。けれども神様にお願いさせて頂いて、病院の事をお願いさせて頂いたら、安心が行く様にという事であった。安心が行く様に医者に掛れと云う事であった。
 それから親達も一生懸命になるなら、本人もまあ一生懸命にならざるを得なくなってきた。病院にやらせて頂いて、色々と検討させて頂いて結果を見たところが、それは全然幹三郎の病名が変わるといったように。こげな病人ばほうからかして、子供も子供なら親も親と言うておった病気じゃなかったわけです。それで云うならば心配はいらんと言う所までなった。けども事実血が三分の一しかないという事だけは事実なのですから、会社の方も休ませて貰うて、今療養に専念させて頂いておる。
 そして神様の信心も倍増にしようというわけなんです。
 ですから本当に考えてみるとね、その事も神様の本当の働きであると言う事が分かるでしょうが。両親が長男である満之の信心を分からせたいと願うのであって、神様はあの手この手を使うて分からせて下さろうとするけれども、なかなか言うことを聞かぬ。とうとう終いには、身体の上に神様が現れなさったと言う事です。もう病気じゃないです。神様が現れなさった姿です。
 そういう事が分かる事が心が開ける。いわゆる天地の開ける音を聞いて目を覚ましたわけです。幹三郎の場合でもそうです。僕は信心なするけれども、金光様の先生にはならんと言うておった。それでもやはり、神様の願いというものは、もっともっと大きかった。そこであぁ言う、死ぬか生きるかといった様な病気にならせられたけれども、それがすでに病気じゃなかった、神様の御都合であったと言うことになる。
 それこそ一夜にして病名が変わるという程しの奇跡を生んだ訳であります。自分ももう神様にお縋りをするより他にはない。もう肉腫である事やら、幹三郎にはひた隠しに隠してあったんですけども。本人はそれを知っておったと云うのですからね。ですから言わば手術が終って麻酔が始めて醒めだした時に、一番初めに筆を持って書いておる事はどう言う事を書いておるかと言うと、「頑張ります親先生」という事だった。
 これがもう第一声です第一筆です。少し意識が出来た時に「頑張ります親先生」とこうであった。訳は分からんなりに、只一心に親先生におすがりしておったと云う事が分かりますでしょう。そう言うところを通らせて頂いてです、なら本人が現在の信心、今申します様に、昨夜の一時から控えに出てきておりましたから、ところがやっぱり三時半には出てきておりました。
 もう是はそれ以来でございますから、それこそ一日も欠いた事はありません。そこに本当の信心の目が開けてきた。只良くなりたいと言った様なものじゃなくて、それを境に、本当の信心に目が開けてくるという事がです、梅の花の時でななからなければ出来んのであります。辛抱しなければ、とても死ぬ程の信心なのですよね、幹三郎の場合なんか。その辛抱を通り抜けた時には、信心の目が開けておった。
 梅で開かせと云うことになるでしょう。神様は、その梅で開かせ、その難儀を与えて、本当に、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと。覚まさせたいばっかりの難儀なんです。だから難儀じゃない。神愛だと、私は何時も言ってるでしょうが。神様の御都合だと言っておるわけです。病気じゃない。私が糖尿病と云うけども、糖尿病と云う名の神様の御都合なんだ。だから、糖尿病の養生は一つもすることはいらん。
 糖尿病と云う名の神様の御都合なのですから。甘いものも、ぜんざいも頂きゃ、お酒も頂けるということになるのです。これは目を開かせて頂いておかなければ出来る事じゃないです、だから。梅で開かせ、松の世で終わる。これは大本教では、松の世で終わると言うことは、人間氏子、いわば、もう全部が全部、願いに願っておる待つておる世の中が開かれるという意味らしいですね。松を待つにひっかけてある訳です。
 お互いが待望もうそれこそ、雨が旱魃の時に雨乞いをする様な気持ちで、人間のすべてが、一人一人が幸福になりたいと願わん者はない。そういう待つの世で終わる。それには梅で開かせ松の世で終わる。この梅で開かせという事は、私の言うてる事とは違う。だからこれは合楽の御理解ですね。だからこの松の世で終わるということに、私は非常に魅力を感じます。ここではもう松という字をもう松という字を見ただけでも感激すると皆さんが言われるくらいに。
 松という字を大事に致しますね。九州の信心は松の字から生まれておる。桂松平、石橋松治郎、安武松太郎と言われる大徳の先生方が九州に道を開かれた。その松こそいわば九州の本当に道が開けてくる知らせになってくる基であるという様に、私どもは頂いておるです。成程、松の世で終わる。私どもが待ちに待っておる。望みに望んでおるところの、本当の幸福というものはです。まず梅で開かせなければならぬ。で。
 私にもう一つ、これで私に言わせるならね、松で開かせ、竹で行い、松の世で終わるという事になるのじゃないでしょうか。竹で行う、竹の心になる。いわゆる、松竹梅という事になりますね。竹というのは、ここではいつも頂くように素直ということです。只、目を開いただけではいかんのである。はぁそんなものかなぁ、人間は神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのである。
 本当に天地の道理を分かって、天地の道理に則した生き方をしなければ、人間の幸福はあり得ないのだと分かる。梅で目が開ける。開けただけじゃいかん。開けた心を素直な心で行じなければいかん。竹で行じると云うことになるのじゃないでしょうか。梅で開かせ、竹で行い、松の世で終わると云うことになるのです。そこに私共が待ちに待っておるところのおかげ、その待ちに待っておると云うのはどういう事か。
 勿論私どもの幸福ですけれども、お道で言うところの幸福と言うのは、私が金持ちになった、健康になったと言うだけでは幸福でないと。神様と私共が一緒になって、助かるというところに、お道の信心があるのだと。それもね、出口ナオという方のお筆先の中にね、今月の焦点が書いてあった、私は、びっくりしました。上の文句はちょっと違いますけどね、信心和楽と書いておられます。平仮名でしんじん、神と人とが和に楽すると書いてある。今月の焦点が和楽ですね。
 成程神様の教えなさる事は、やっぱり大本教だって金光教だって、同じと思いますよね。だから大本教はいかん、金光教だけでなければいかん。全教一心ち言うのは、金光教だけの意味の事じゃないということが分かる。もうそれはお筆先を読みよると、まるきり教祖が仰っておるのと同じ様なことがあるです。その中にいわゆる信心和楽というのがある。ですからこれを、合楽的に言うならどういう事になるかと言うと、信心合楽という事になるのじゃないでしょうか。神と人とが一緒に、本当に楽になる。
 私が言う意味合いの楽になる。一切合切がおかげと頂かせてもらえば、一切合切が自由になるというおかげ。一切合切が喜べれば、一切合切が自由になるというおかげ。そういう信心が身についてくる時にです、その中に、一切合切の中に、神様の働きもありゃ、神様の助かりも入っておるのです。ですから、ここにはっきり信心合楽という事が言えるのです。「梅で開かせ、松の世で終わる。」
 それを私は、中に、竹で行う、竹で行ずるという風に申しましたね。梅で開かせ、難儀な時に目を開く、それが神の願いである。開かせたいばっかりの難儀である。開かせたいばっかりの、病気ではない病気である。そこでお互いが待望の世界、いわゆる、神も人も待っておるところの信心(神人)共栄の世界。所謂、神人合楽の世界、信心和楽と、出口ナオという方は言うておられます。
 私がいつも申しますように、合楽という地名という事だけでも、大変な御神意があるのだと。善導寺からここまでの、バスの停留所をずっと拾うて見るが良い。善導とは、善い導きを受けると言うことである。善い導きを頂いて、信心が分かり、あら勿体なやと言う勿体島である。その勿体島がです、自分の心の中に和賀心が生まれる。賀びの花が咲く、椛目である。元の椛目の地名を木偏に花と書いてある。
 その芽が出るところである。心に喜びの花が咲く。その花の芽が出る。それを常に持ち続ける常持である。常持、それを常に持ち続けて、はじめて合楽にゴールインというおかげになると言うことである。今日の御理解はそういう事なんです。それには、今、天地の開ける音を聞いて目を覚まさなければならない。
 「梅で開かせ、竹で行ずる」この行ずるというところがなかなか難しい。これを行うという事が、実行することが難しい。喉元を通れば熱さを忘れるで、病気で苦しかった時には、毎日参ったけれども。さあ治ったらもう忘れてしもうておると言うのがある。だから、ここんところをです、行ずる事の為に、昨日の昼の御理解に私が頂いた。これは余り厳しい事だから言葉では申しませんでしたけれども。
 そこから昨日の昼の御理解五十一節は頂いたんです。願いの姿勢が示されてあるんですね。狙い撃ちされている私達かも知れません。有難く有難く動いている。そこから大切、動いている事が大切で。例えば、運命のいたずらとか、運命の改善なんて言うのがある。私達がね、それこそ障子一重がままならぬ人の身であるということは、今ここで、元気で物言いよったのがね、次の瞬間には、もうちゃんと冷たくなっとった。
 先日椛目の、元のお広前の隣に自転車屋がありましたでしょう、生野さんあっちの息子さん、此処の若先生と友達なんです。もう結納まで取り交わしてから、もう十月かなんかには結婚式になるちゅう事でした。元気でそれは元気な方でした。真面目でもありました。そして関西から帰ってきてから休まれて、翌る朝余り起きて来んからね、起こしに行きなさったら、もう冷とうなってあった。もう本当に人間というものはね、はかないという言葉で言うならば、人間ほどはかないものはないとですよ、実を言うたら。
 所謂、神様からね、いわば神様というかね、運命の神とでも申しましょうか。いつもこう狙いを定めとる、いつ狙い撃ちされるか分からない私達であるということ。ですから、私どもがです、本当に神様に喜んで頂くような事柄に、いつも動いておらなければならん。それを御ご用というのである。いつも神様が喜んで頂くような心が、自分の心の中に、コロコロと有難い方へ有難い方へと心が動いておらなければならない。
 動いておるから例えば運命のいたずら的な神がです、的を定めて射とうとしとっても、射たれんで済むおかげを受けられるのです。ですから此処は竹で行じるのは、何故行じる本気で行じる或る意味合いで威嚇するように、私はそう教えておられると思います。まあ決して威嚇ではありませんよ。松の世で終わる事の為になんです。そういう私はおかげを頂きたい。梅で開かせ竹で行い松の世で終わるおかげを頂かせて頂く。
 如何に梅で開かせて頂いたものをです、本当に行の上に信心生活の上に家業の行の上に、それを現わして行く事が私共が待ちに待っておる、神様も願いに願っておって下さる、松の世がそこに頂けるという事が分かるでしょう。今日は大本教の出口ナオという教祖でしょうかね、教祖のお筆先を借りて参りまして、教祖が仰る今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと言う事を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。